よた、よた。

頼りない足取りで、小さな人間が歩いている。

あどけなく丸い小さな両手を壁に当て、
一歩一歩、慎重に踏みしめながら、亀のような速度で前へと進む。

そうして時折立ち止まっては、方向を確かめるように、まるい頤を上向かせた。

年の頃は、十か、九つか。

子供らしい赤みの差した白い頬には、始終伏せられた長い睫が影を落としている。
どうやらこの童女は、瞼を持ち上げられぬらしい。

秋風が吹き抜ける狭い路地で、童女の細い銀糸の髪がふわりと舞った。

喧噪を遠くに聞きながら、時折躓きつつも歩きつづけ、息を切らす頃には、
街外れにある林の前に辿り着いていた。

縋る物を無くした童女はしばし逡巡したが、やがて意を決したように小さくうなずくと、
足場の悪い林の中へと、背の高い草をかき分けながら進んでいった。

小さな体を包む柔らかな衣服は見る間に汚れ、
雪のように白い非力な手は、手探りをするたびに小さな傷を作った。

時折漏れ聞こえる息遣いは益々に荒くなり、
ぜいぜいと、肩を大きく上下させて苦しげに呼吸するようになった。

肌の白さから見て取れるように、この童女は外出に慣れていないのだ。
縋る物のない鬱蒼とした林は、そんな童女の体力と、なにより精神力を容赦なく奪い続けた。

覚束なかった足取りが、さらにふらふらと、危うげなものになっていく。

今にも倒れてしまうのではないかと気をもみ始めた頃、童女の小さな足が乾いた土を踏んだ。

はっと表情を引き締めた童女は、幾分力を取り戻した足取りでまっすぐに歩き、
その小さな体の、腹のあたりまでくる高さの、みすぼらしい岩の前で歩みを止めた。

よく見ると、その岩には文字が彫られていた。

『レティシア=ユリア=リートミュラー ここに永眠る』

童女の小さな手が、掘られた文字を繰り返し、繰り返し。
確かめるように、自らに言い聞かせるように、その短い文章をなぞり続けた。

ぽってりとした唇が小刻みに震え、開くことのない瞼からあふれ出た雫が頬を伝った。

みすぼらしい墓石の周囲には、雑草こそ茂っていないものの、
四方を雑多な木々に囲まれ、わずかな木洩れ日も差し込んでこない。
風通しの悪いその場の空気は暗く湿り、遠くない場所から肉を喰らう動物の気配がする。
埋めたばかりと見えて少し色の違う墓石周辺の地面には、
すでにいくつか爪の跡が見受けられた。

掘り返されずに済んだのは、既に遺体の腐敗が進んでいるからだろうか。

「・・・こんな、日も当たらない場所で・・・」

静かに涙を流していた童女が、湿りを帯びた痛ましい声でうなった。
そうして嗚咽をかみ殺しながら膝をつき、振るえる腕に墓石を抱きしめた。

「ごめんなさい、母様。
あんなに守ってくれたのに、私に力が足りないから。」

小刻みに上下するか細い肩は頼りなく。
絞り出された声は、悔しさと哀しみに上ずっていた。

こんなにも感情を高ぶらせた彼女を、彼は知らなかった。

流れる涙は止め処なく。
振るえる肩は儚く弱く。
見下ろす項は無防備で、簡単に縊ることが出来そうだった。

今ならば、堕とせるのではないか。

溢れ出る好奇心に誘われるまま、すすり泣き続ける幼き彼女に手を伸ばす。

黒く鋭い異形の指先が触れる直前、白い光がその手を弾き飛ばした。

「何者だ」

緊張と驚きで裏返った声にはおよそ迫力というものがなく、
良く知る彼女とのあまりの違いに、逆に気圧されそうになる。

しかしここで圧せられるわけにはいかない。
半端モノとて、彼もれっきとした悪魔なのだから。

『私 ハ 、ソ ナ タ ノ 望 ミ ヲ 叶 エ ル 者』

童女はいぶかしそうに顔をしかめた。
こうした表情の変化すら、珍しい余興のように見えてしまう。
彼が知る彼女は、得体の知れぬ者には微塵の隙とて見せはしない。

『力 ヲ 欲 ス ル カ 、 童 女 ヨ 。欲 ス ル ナ ラ バ 、コ ノ 手 ヲ 取 レ。
サ ス レ バ 与 エ ン、至 上 ノ 力 ヲ。
意 ニ 沿 ワ ヌ 者 ヲ 砕 キ 、 虐 ゲ ル 者 ヲ 廃 シ 、全 テ ノ 欲 望 ヲ 叶 エ ル 力 ヲ 。』

枕元で囁くように、甘く、甘く。
一音一音柔らかく紡がれた誘惑は、しかし白い一閃に切り裂かれた。

風穴の空いた口元に手をやり、大した威力だと感心した。

「舐めるな異形。私は与えられた力になど縋らない。
欲しいものは何であろうとこの手で手に入れる。
護りたいものは、必ずこの手で護り抜く。
もう二度と。誰にも。何も。奪わせたりなど決してしない。
次に無駄口を叩く時が、貴様の最期になると知れ。」

精いっぱいの反撃を、彼は修復されたばかりの口角を吊り上げて嗤った。

張り上げられた声はキンと耳障りに裏返り、
柔らかな土を踏みしめる両足は小刻みに震え、
小さな手は指先が白く変色するほど、強く母の墓石に押し当てられている。

もうひと押しだ。
もうひと押しすれば、彼女を堕とせる。

さらなる甘言を紡ごうと口を開いた瞬間、
大きな力に後方へと勢いよく引きずられた。

唖然としている間に景色は変わり、
大きくしりもちをついたのは見知った彼女の部屋だった。

「何のつもりだね、アルフェラート。」

いつもと変わらぬ穏やかで柔らかい声音に、悪魔はびくりと肩を震わせた。
振り返った先にある表情もいつもと同じ、彫刻のように整った微笑。
しかしそれが、また一段と恐ろしいのだ。

「聞こえなかったのかね?
私の記憶の中に踏み入って、一体何をするつもりだったのかと訊いているのだが。」

『何 モ ・・・』

言いながら、今にも天井に頭をぶつけてしまいそうな巨体をずるずると動かし、
現在ねぐらにしている高度な書物へずり寄っていく。

しかし慎重に目指した避難施設は、哀しいことに、
目前まで迫ったところで強固な結界に囲われてしまった。

やれ、参った。彼女に得意の屁理屈は通用しない。
一体どうすれば抹消されずに済むだろうか。

悪魔が人間を恐れるなど本来有り得ないことだが、
彼女は次元の違う存在なので、誰にも情けないとは思わないでほしかった。

「大方、記憶を改ざんして私をビュッフェにでも仕立て上げるつもりだったのだろうが。
この私を相手にそう容易く事が運ぶと思ったのがそもそもの間違いであるな。」

『ソ レ ハ 、 少 シ 違 ウ 』

逆を言うと、大体あっている。

「ほう?」

『空 腹 ヲ 感 ジ テ イ タ 。 ソ ナ タ ガ 珍 シ ク ウ タ タ 寝 ヲ シ テ イ タ。
ソ ナ タ ノ 過 去 ニ 興 味 ガ 沸 イ タ 。 私 ハ 好 奇 心 ニ 抗 ウ 術 ヲ 持 タ ナ イ 生 キ 物 ダ 。』

「つまり?」

『・・・ 最 初 カ ラ 改 ザ ン ス ル ツ モ リ ダ ッ タ ワ ケ デ ハ ナ イ 。
ア マ リ ニ モ ヒ 弱 デ ア ッ タ カ ラ 、 魔 ガ 差 シ タ ノ ダ 。』

しどろもどろに言い訳すると、
口元に添えられていた彼女の手がにわかに動いた。

「・・・そなた、一体どのあたりの記憶を盗み見たのだ。」

『童 女 ノ ソ ナ タ ガ 母 親 ノ 墓 石 ノ 前 デ 惨 メ ニ 涙 シ テ イ タ 。』

正直に答えると、彼女はぴたりと動きを止め、完璧な沈黙を創り出してしまった。
彼はあまりの恐怖に、つぐんでいようと決めた口をぺらぺらと動かした。

『大 体 ソ ナ タ モ 浅 ハ カ ダ ッ タ ノ ダ 。
私 ガ 如 何 ナ 性 ヲ 持 ツ 生 キ 物 カ 知 ッ テ イ ナ ガ ラ 、封 ヲ 緩 メ タ 状 態 デ 隙 ヲ 見 セ タ 。
怒 ル 前 ニ 、 コ レ ヲ 今 後 ノ 教 訓 ト シ テ 成 長 ス ル コ ト ヲ 考 エ ル ベ キ ダ 。』

言ってしまってから、これは消されると巨大な身体を限界まで縮こまらせた。

しかし白刃が弾けることはなく、
「そうかもしれぬな」と呟いた彼女は、彼の住処を囲った結界を解いた。

彼が一目散に白い革表紙の中に潜り込むと、
彼と共に漂い出ていた目視できるほど濃密な瘴気も、
主を追うようにしてずるりと書物の中に吸い込まれていった。

彼女はきれいに全てを飲み込んだ書物を拾い上げ、
椅子に腰かけてそれを膝に乗せた。

白く滑らかな表面を軽くなで、その中身にいつもと変わらぬ声で語りかけた。

「そなたも知っての通り、私は友人にはとりわけ優しい。
従って、今回のこともその類稀な優しさでもって大目に見てやろう。
だが、生憎と、裏切り者にかける温情は欠片も持ち合わせてはいなくてね。」

書物がぶるりと恐怖に震えた。

「そなたの寿命を決めるのはそなたの行いだ。
次は申し開きをする時間さえ与えられぬものと心得るがいい。」

『心 得 タ』

満足のゆく返答をしたはずなのに、彼女はまだ書物を膝に乗せたままだった。
早いところ本棚の奥の方にでも押しやってもらいたい心境なのに、
一体これ以上なんと脅しをかけるつもりなのだろうか。

まだ強化されていない封の隙間から、数ある目のうち一つをちらりとのぞかせると、
彼女は見えないはずの目でどこか遠くを見ている風だった。

「あのような醜態を晒したのは、今のところ、あれが最後だ。」

珍しい光景を注意深く観察していると、
霞として漂い出た身体の破片を彼女の手がくすぐるように撫でた。

「裏切り者も嫌いだが、泣きわめくばかりの非力な虫も好きではなくてね。
次があるときは、友よ。そなたが私を殺しておくれ。」

『誇 リ 高 イ ノ ハ 結 構 ダ ガ 、 ソ レ ハ 私 ニ 如 何 ナ 旨 ミ ヲ 齎 ス ノ ダ 。』

そんなことをしたら返り討ちにされるではないか。

「案ずることはない。その時は、碌な抵抗などせぬであろう。
仕留めた後は、身体も魂も好きに使えばいい。
喰えば力になるであろうし、里に帰って高位の者に献上すれば居場所も出来よう。」

『ソ ノ 手 ノ 汚 レ 仕 事 ハ 、 ア ノ 眼 鏡 小 僧 ニ 頼 メ バ 良 カ ロ ウ 。』

よく言う。
先程も泣きじゃくっているところに付け込もうとしたが撃退されかけた。
あの年齢でああなのだから、目の前にいるこの化け物など無理に決まっている。

「セオドールに私は殺せない。私は彼の世界だからね。」

相変わらずなんとも自意識過剰なことを当然のように言い放つ人間だ。

「特に、そなたに契約を求めるようなことがあれば、その時は迷わず殺しておくれ。」

何を思って突然そのような事を言い出したのか全くもって解せないが、
普段と変わらぬ落ち着いた声音は、普段よりも少しばかり、思いつめて居るように聞こえたから。

『心 得 タ』

仕方なしと了承を伝えると、柄にもなく真摯に「ありがとう」などと言う物だから、
彼女は本当に近々壊れるか死んでしまうかするのではなかろうかと、少し不安になった。
しかしその不安も、一時の幻のように、すぐに溶けて消えて行った。

なぜなら友よ。

実に楽しげに高度な劇薬の調合を片手で開始したそなたはきっと、殺しても死なないからだ。



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誰ED後と言う事のない、クリア後のセレンとアルです。
親族用の墓地に埋葬してもらえなかった最愛の母の墓標で涙する、まだ非力(賢者比)で小さなセレン。
それが珍しくて、つい本性出して付け込もうとするアルフェラート。でも失敗して現代セレンにガチビビり。
仲良しなようでいつでも殺し合える殺伐とした関係です。たぶん友人よりも相互利用関係が適切です。
ちなみに実際の過去では、日が暮れるまで泣いた(最終的には声を上げて号泣)後、
セレスは私が守ると誓って転送陣をつなげて帰っています。

あまり明るいお話しではありませんでしたが、少しでも楽しんで頂けたなら嬉しいです。
皆様どうか良いお盆をお過ごしください。
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